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金沢貞顕 (かねざわさだあき) <前編>
 幼い時は六郎と名づけられ、顕弁(けんべん)・顕実(あきざね)時雄(ときお)顕景(あきかげ)の兄たちがいました。父の北条顕時(ほうじょうあきとき)は兄たちを抜いて貞顕(さだあき)に家を継(つ)がせ金沢北条氏三代目としました。金沢家も定着し金沢姓を名のり金沢貞顕(かねざわさだあき)と呼ばれるようになりました。

 16才で左衛門尉(さえもんのしょう)・蔵人(くろうど)という事務官としての最高のくらいを勤めあげてから大臣にあたる引付頭人(ひきつけとうにん)という幕府の要職についたのでした。
乾元元年(けんげんがんねん)(1302年)25歳で六波羅探題の長官として多くの軍勢を率いて京都にのぼり鎌倉幕府の中心人物として10年間過ごされました。 この間、称名寺は貞顕から厚い信頼を受けていた釰阿(けんな)という、徳の高いお坊さんが二代目になり真言密教のお寺に変わりました。二人の細かい情報のやり取りした書類と貞顕の書類、642通が金沢文庫に重要文化財として残っています。最高級の和紙に良質の墨で書かれた古文書(こもんじょ)は700年余りたっていますがきれいです。

 貞顕は才能豊かで、祖父実時とちがった学問を好み、六波羅探題をつとめるにあたり、鎌倉にない百練抄(ひゃくれんしょう)法曹類林(ほっそうるいりん)などのむずかしい本を正しく写し写本を作り基本書にしたのです。また、よいと思ったことを実行し税金を集めて、海に瀬戸橋(ベイブリッジ)を架け、鎌倉と金沢が陸路としてつながり金沢が発展していくのです。

この記事は、横濱金澤シティガイド協会の酒井宣子さんが書かれた文をご本人の了解を得て転載しております。
快く許諾してくれました酒井さんに感謝します。

2007-04-09(月) 11:18:01

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