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永島祐伯(ながしまゆうはく)<後編>
 明暦三年(1657年)には江戸全体が焼ける大火事(明暦の大火)がありました。永島家も学問所も焼けて仕事ができなくなり苦しくなってきました。そこで、祐伯は、忠清の長男や大名の子供達に儒学を教える儒官になりました。

 一方、家業としての医者は弟が引き継ぎ、五代将軍徳川綱吉の侍医の一人として診察をおこなっていました。
 年を取った祐伯の父を哀れみ、忠清は隠居の場所として景色のよい野島山のふもとに数千坪の広い土地を与えました。
 寛文四年(1664年)四十歳になった祐伯はここに邸を建て江戸から金沢に移りました。

 父は忠清への恩返しとして、幕府のために新田開発をおこなうことを祐伯に相談しました。祐伯は父の意志を受け継いで、地元の農民たちと交流しつつ新田づくりをはじめたのです。

 走川(現在の寺前一丁目)に七十間(127.4m)、平潟(現在の平潟町の一部)には土手八町と呼ばれた三三六間(611.5m)の塩除堤(しおよけづつみ)を築き上げ、寛文八年(1668年)に走川新田と平潟新田の二カ所を完成させ泥亀新田と名づけました。その後、塩除堤が大破したり地震で崩れたりしましたが、代々復興と開発に力を尽くして、嘉永二年(1849年)九代目永島段右衛門忠篤(号亀巣)が、泥亀新田をついに完成させました。

 永島祐伯は元禄八年(1695年)七一歳で亡くなりました。お墓は野島山山腹から今は龍華寺境内(りゅうげじけいだい)に移されています。

この記事は、横濱金澤シティガイド協会の酒井宣子さんが書かれた文をご本人の了解を得て転載しております。
快く許諾してくれました酒井さんに感謝します。

2007-03-25(日) 17:51:18

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