地域CMS「にぎわいネット金沢」

マップ検索:
永島祐伯(ながしまゆうはく)<前編>
   寛永元年(1924年)〜元禄8年(1695年)
 江戸時代のはじめ頃、永島祐伯は瀬戸橋から奥の入り海(今の君ケ崎・金沢区役所横浜市立大学・東急車輌など)を埋め立てた人です。「泥亀(でいき)」という町名の由来となった人物でもあります。その後、永島家は九代一八〇年かけて泥亀新田を完成させました。

 祐伯は、但馬の国九鹿(くろくむら)村(現在の兵庫県養父市八鹿町)の医者の家庭で生まれ、幼い頃から医学を学んでいましたが、儒学者への道を目指すようになりました。
 十四歳の頃、両親と江戸へ引っ越し、林羅山が開いた儒学の学校へ入りました。学問所では江戸幕府の、文書を整理したり、まとめたりして幕府の仕事を手伝いました。

 父は、江戸幕府の大老・酒井雅楽頭忠清の往診医の代理として働いていました。あるとき、忠清や諸大名から藩医(大名につく医者)になるよう説得されましたが、「自分は自立した医者でよい」と断ったのです。

 それには、荘子(中国の自然学者)の「死んでから甲羅を霊廟(祖先の霊をまつった屋舎)の中に三千年もまつられる亀より、生きて泥の中を尾をひいてはう亀のようにえらくなることを考えず、自分なりの才能を楽しんで生きる」という教えから、医者という腕には自信がありながら、高い地位につくことを好まなかったのです。そして「泥亀」の二字をとって新しく雅号としました。

 祐伯は父「泥亀」の子として「泥亀子」と名乗るようになりました。

この記事は、横濱金澤シティガイド協会の酒井宣子さんが書かれた文をご本人の了解を得て転載しております。
快く許諾してくれました酒井さんに感謝します。

2007-03-19(月) 09:58:54

Comments must be approved before being published.