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金沢今昔物語
  • 金沢貞顕 (かねざわさだあき) <後編>
  • 金沢貞顕 (かねざわさだあき) <前編>
  • 永島祐伯(ながしまゆうはく)<後編>
  • 永島祐伯(ながしまゆうはく)<前編>
  • 金沢貞顕 (かねざわさだあき) <後編>

     祖父実時の供養(くよう)のために清涼寺式釈迦如来像(せいりょうじしきしゃかにょらいぞう)の仏像(ぶつぞう)を造らせました。さらに、称名寺修造に最大の力を発揮して金堂・講堂を含む七堂伽藍を造立しました。池には水鳥を放し景石を置いて平橋・そり橋を架けて浄土庭園(じょうどていえん)として完成させ、元亨(げんこう)3年(1323年)2月に称名寺結界作法(けっかいさほう)という儀式(ぎしき)を行いました。称名寺結界絵図(けっかいえず)として重要文化財になっております。

     38歳で連署となり十三代執権北条基時(しっけんほうじょうもととき)十四代執権北条高時(たかとき)に政治家として執権を支えることが自分の努めと心がけ細かいことにも気をくばり重要な役割を果たしたのです。しかし、高時が病弱で24歳で執権をしりぞいてお坊さんになると、後継ぎ問題で長崎高資(ながさきたかすけ)と安達時顕(あだちときあき)で対立しました。これを嘉暦の騒動(かりゃくのそうどう)と呼んでいます。

    この騒動で幕府の実権(じっけん)を握った長崎氏は貞顕を十五代執権にしました。貞顕に不満をもつ得宗家では次々にお坊さんなり、騒ぎが治まったわけでもないので貞顕は10日間で十五代執権を辞めてお坊さんになり「崇顕」(すうけん)と名のりました。そして「円覚経」(えんがくきょう)というお経を写してお父さんの33回忌の供養を行いました。その2ヶ月後に、新田義貞(にったよしさだ)軍と北条氏の軍勢が戦い貞顕の子貞将(さだゆき)・貞冬は大将として鎌倉で戦いましたが北条軍は負けました。貞顕は鎌倉東勝寺で北条一族と共に56歳で亡くなり金沢北条氏はほろびてしまいました。お墓は称名寺境内(けいだい)にお父さんと並んで小高いところにまつられています。

    この記事は、横濱金澤シティガイド協会の酒井宣子さんが書かれた文をご本人の了解を得て転載しております。
    快く許諾してくれました酒井さんに感謝します。

    Category: 2007-04-13(金) 17:50:00

  • 金沢貞顕 (かねざわさだあき) <後編>
  • 金沢貞顕 (かねざわさだあき) <前編>
  • 永島祐伯(ながしまゆうはく)<後編>
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